昭和50年3月15日 朝のご理解
                               入力者 大坪れい


ご理解第3節「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
 天地金乃神様と申される方は、ん~天地の道理も御恩徳も知らずに、いわば、え~報恩の生活、天地に対するところの、ん~御恩恵を御恩恵とも気づかず、知らんでおる氏子に、天地の事分けを聞かして、そしてえ~末々までも繁盛いたすよう、人間氏子の真実の幸せを、ん~説き聞かせ分からせて、そしてえ~、神と氏子とが、いわばあ~信心共栄、神と人とが一緒に栄えていこうというおかげを頂かせて下さろうとしておるのが、天地金乃神様だということです。

 この辺のところ、大変難しく説明されておる方がありますけれども、天地金乃神様という方は、そういうようなね、私共が第一天地の道理も知らず、ね、本当なことを分からずに、いわば迷いに迷うて自分のものでもないものを、自分の物のように思うたり、ましてえ~天地の間にありもしない、いうならば日柄も方位、方角と言ったような、検討違いのことばかりを言うて、それが自然天地に対するところのご無礼ともなって、そして難儀が続いておるのです、そういう人間氏子にね、まず願う氏子に、いわばおかげを頂かせ、願う氏子に、いわば御利益を授けて、そして序所に理解申して聞かせ、末々までも、いわゆる子々孫々に繁盛いたし、幸せになれれる道を説き聞かせて、ね、そのことがそのまま神の助かりということにもなるのですから、ね、氏子上下立つように致すという、天地金乃神様の、いうならば理想郷、そういう顕現、理想郷顕現の願いを、このご理解3節には教えておられると思うのですから、私共もそういう神様の、いわば御心を対して、いよいよ自分達の検討違いの、いわば物の見方、考え方といったようなものを改めて、ね、そしていよいよ理解申して聞かせと仰る、いよいよ御教えを頂いて、御教えに基いた生き方をさせてもらう、そして神様の願いであるところの、末々までも繁盛いたす道を進ませてもらう。そのことが神様の願いである、そういうだから神の理想郷と、私共の理想郷というのが、一致さなければならない。神様が下さろうとする願いと、私共が頂きたいという願いも、またそこに置かなければならないということです。そのことを、私はご理解3節には教えておられる、ところが中々理解申して聞かせても分からない、ね。それは検討違いだぞと教えても、やはり検討違いと気づかず、そしてただ信心を続けておるだけでは、もう一向にいうならば、神様の理想郷実現ということにはならない。ね、
 そこでどういうところにですね、どういうところに、こういう懇切に神様のいわば、腹を割っての、お~御教えです。ね、ですから、「こうあってくれ、そうではいけない」というところをです、私共が頂ききらんでおるというところにです、今日は焦点を当てて、お話を聞いて頂きたいと思います。

 ね、だから「願う氏子におかげを授け」というところは、もう皆さん分かっておられるわけです、ね。自分自身も自分一家の上にも、また事実、んなら、あ~ここへお参りをしてくるとです、そんなおかげが頂けるじゃろうかと、いうなら奇跡というより他にないような、おかげを見たり聞いたり、また自分自身も頂いておられるのですから、ね、いわば願う氏子におかげを授けと仰るところは、もう頂けておるということになる、そこで日々、理解申して聞かせと仰る、そのご理解を、いわば皆さんに聞いておるわけです。ね、
 その理解が、理解でて、そして自分のものになってくるおかげを頂いたら、これはもう誰でも、信心をすれば神徳は誰でもが受けられるとご理解に申しておられますように、ね、「神徳は信心すれば、誰でも受けることができる」という、いわばおかげなのですけれども、実際は誰でもが受けていないというところにです、これはもう私共の責任、氏子の方の、これは責任です。それを精進しない、努力しない、ね。

 昨日、あることのお願いをさせて、まぁ~あることというよりも、これはあの、若先生のことでした。丁度4時のご祈念を終わって、あの~4時半にここを下がります、そして必ず若先生が4時半からの御祈念をしてくれます、あ~御結界をしてくれます。ところが来ておりませんので、ん~「どうしたか?」と、私がいったところが、東京からお客さんが来とった。それでえ~、お客さんが見えておるから出てこられないと、こういう。え~昨日は日田の共励会でしたけれども、その共励会にもでられなかったのは、それが理由のようである。で、そのことを私は、ここを4時半にさがって、え~ここへまたつかせて頂いて、神様にお届けをさせて頂いとったら「心が死んでおる」と頂いた。心が死んでおると。この頃からね、もう死んだ気でというご理解を何日か頂きましたね、だから死んだ気でというのと、死んでおるというのとは、全然意味が違うんです。ね、私この辺のところが何かはっきりしたような気がいたしました。ね、

 最近は、例えば表行は、ここではもう皆さんが、もうそれこそ御法度のように申しますから致しません。その代わりに、それにとって変わった、もう心行にいよいよ打ち込むということである。ね、例えて申しますと、私がんなら、4時なら4時からの御祈念を奉仕させて頂く、そのためには、いうならば一秒一分でも、( ? )はならない。そんためには私は、4時の御祈念なら4時の御祈念のその時間が、一番私の一日にとって、素晴らしいその心状態、いわゆるコンデーションが良い時を、色々工夫いたします。御祈念中に居眠りどんばつくようなことがあっちゃならない、また眠ったりどんしちゃならない、一番清々しくて、有り難い状態で4時の御祈念ができるようなことのために、もう前の日から、ずっとそのことを心かけとる、そしてその時間が一番いうならば、私の心の状態が良い時を工夫するということが、私はそのまま心行だと思います。ね、
 だから例えばなら、若先生が昨日4時半からの奉仕がでけないという時に、でけないというような、まぁ~これはみんなそれがありますけれどもね、何かそこに用事ができると、いうならば座らんでもよい、(?)御用せんでもよい、そこに口実があればね、もう言い訳ができるればもう、それで事済んだような思い方を、信心ではもういよいよいけませんです。昨日あなたお参りしようと思いよったけれども、こげなんこつでしたからと、いかに前の日からの心行がでけていないかということが分かるです。ね、

 一日の中で、普通はそこを、どこはどうであっても、ただ4時からの、いうなら御用だけは、絶対自分がさせてもらわなければと、若先生いうなら、朝の5時の御祈念なら5時の御祈念だけは絶対私がおかげを頂くということを決めておるのならば、これをきちっと実行する、実行するためには、その前から心がけがいる。例えばお客さんがあってもです、私は4時半から立たなければならないからと、そこできりをつけれる、いわば工夫をしとかなければならない。ね、それをしない心は、もうすでに神様へ向ける心が死んでおるんだということです。して見ると、お互いの皆さんの例えば信心を振り返ってみて、一日のうちね、信心の心が死んでおる時の方が多いということになりゃせんでしょうかね、そこでです、いうならば死んだ気でというような、御教えが生き生きとしてくるわけです。私は本当にこの心行の難しさということは、自分がね、その気に本気になったら、心行というものは実に楽しくて有り難いものだ。けれどもうかつにしておると、心行はもういつのまにか素道理してしまって、いわゆるね、信心の生き生きとした心も何も生まれてこないのです。心が、神様へ向ける心が生きておる時にはです、ね、絶対そういう間違いはないです。

 昨日、昨日の晩でした。( ? )は、ん~夜中にお風呂を入りました、丁度あれは何じゃ( ? )、あの~高橋さんが最後にお風呂入っておられた、その後に私は入った。そして私は、お風呂に入ってから思ったことですけれども、まるきり私がお風呂から上がった後のような感じでした。もう、もうそれそのままでした。もうタオルといい、石鹸といい、そこ辺のお掃除のしてある具合といいですね、高橋さんが上げられ、お風呂へ入られたらいつもそうなんです。いうならばお風呂の中で心行がでけておるです。しかも先生が言うことを、もう一分一厘間違いなくです、もうそれこそそのまま、私が上がった時と同じような感じがお風呂の中にありました。本当に素晴らしいと改めて思いました。ならそれを、なら高橋さんに、なら聞いてみて、「あげんしなさったら難しいでしょうね」と言うたら、「難しいことでも何でもない」と、親先生があげん言いなさるからさせて頂いただけのことです、それは難しいことでも何でもない(?)ね、( ? )石鹸は右に向いたり左向いたり、タオルはもうポンとここに投げ上げてあったり、ね、そりゃもう、洗った後、石鹸の泡がこうあったりといったようなことじゃなくて、もう私がお風呂から上がらせて頂く時と同じ状態がお風呂の中にあったわけです。難しいことじゃないでしょうが、だから。問題はその気になったら、いっちょん難しいこっちゃないです、いやもうそれが楽しいです、恐らく上がる、あが、風呂から上がられるときの気分も良かったに違いないです。私がするとおりのことをすりゃ、こげん気持ちがよかもんだということを体験されたと思うです。ね、

 ですから、私の言うことを、一分一厘間違いのないようにさせてもらおう、勤め、例えば私がおげを頂いとらんなら別ですよ。おかげ頂いとらん者の真似したっちゃでけん。けれども、おかげ頂いとる一つのそこに、手本というものがあり、見本というものがあるから、それに本気で取り組ませて頂くということなんだ。ね、そんための私は、心を使うことが、心が生き生きとして生きておる。見やす、そんなに風呂から上がった時だけのごと見やすいことばっかりじゃないかもしれん、ね。例えばんなら、難儀なら難儀といったようなものをです、ね、どんなに思うても難儀としか思えないけれどもね、神様のそれが御働きだという、分かればです、それを受け止めさせて頂くことが信心だと頂いておりますからです、ね、そういう時にはです、いわゆる死んだ気でおかげを頂けきゃ、でけんことないです。ね、何の為に日頃、教えを頂いておるかと、私は、その勝彦のことで、そのことを頂いてです、ね。お互い本当に思うて見なければならないことはです、ね。( ? )神様へ向ける心が枯れておるということですよ、死んでおるということは。神様へ受ける心が枯れておる、だからそこをいい加減にするのです、そのいい加減にすることが、もうね、別に悪いこととも、いけないこととも思っていないような状態、そういう信心では、とてもね、末繁盛の道とか、ね、信心共栄の道などという道は開けてこないです。ね、

 今日私は、そこんところを皆さんに今日分かって頂きたい、しん、神様へ受ける信心の心が枯れておる、一日のうちに、いうなら枯れたり生きたり、半死繁盛の状態ではなかろうかと思うんですけれども、ね、心を神様に向けたら、もうそれこそ楽しゅう、有難うできることです、ね、それを一つの口実にして、それをなさないといったような信心、そういう信心では、こんな素晴らしい御理解を、日々頂いておっても、ね、いつまで経ってもね、死んどるのですから、死んどる時の方が多いのですから、育つはずがありません。
 今日は皆さんね、ご理解3節の大体のいうならば、おかげの頂けれる頂き方、かん、受け方を、まず先に聞いて頂きました。天地金乃神様というお方は、一番最後の、「末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子」というように、信心共々に栄えていくことを願いとしておられるのだと、ためには私共のまず検討違い、考え違い、自分のものでもないものを、自分のものと思うような考え違い、また日柄方角などを言うような、もういよいよ、ぐにもつかないことを、検討違い、ね、しかもそれを、そういう天地に対するご無礼が、積り積もって巡りの基を作る、難儀の基を作ると、ここでは教えておられるのですから、私共がまず、そういう考え方から、ね、本当のことを分からせてもらう。皆さの場合は、願う氏子におかげを授けと仰る、そこんところのおかげは、日々頂いておられるのですから、理解申して聞かしと仰せられる、その理解も皆さんは聞いておられるのですから、その理解力というものをです、身に付けていかなければいけない、理解力がでけて、理解がでけたの分かったならば、それを行の上に現していかなければいけないことを聞いて頂いた。行の上に現すということは、心がね、生き生きと神様へ向かって、生きて躍動しておらなければいけない。私はここんところをね、本当に、あの疎かにしておる時には、もう心が枯れておる時だと、一つ分からせてもらってね、枯れた心でいかに天地に、叫ぶようにいうてから、どうぞ助けて下さい、のばして下さいと言うたって、枯れた木が、ね、いうなら手を差し伸べて、伸ばしてくれ、葉をつけてくれ、花を咲かせてくれ、実を実らせてくれといっているのと同じことです。ね、枯れとるもん。ね、だから心が生き生きとしておる、そういう生き生きとしてくることのために、一つ本気で心行させて頂こうというのです。ね。

 それこそ、( ? )さんじゃないですけれども、お風呂から上がって、ね、タオルを絞ってかけられる時に、今まではただ、こうやってかけておったのをです、ね、上下をちょっと引っ張って、きちっと、乾いた時にはのりを付けたときのように、きちっとなるように親先生がなさるから、私もそげんさせて頂こうと思うた途端に、感動がわいたと言われる。それをするたんびに、有り難いと思われる。ね、真似をしただけでも、いわばおかげを頂く、人の真似をするということは、そういう有り難いものが伴うてくるのです。ね、ですから、これは例えば、タオルとか風呂とかというだけのことではありません、ね、私というなら今日は若先生を、例にとって聞いて頂きました。私は例えば、自分の勤めなければならない時間、ね、その時間、その時には、もう前々からね、いわゆる心行がしてある、ね。朝の御祈念なら朝の御祈念が、一番私の心の状態、いわゆる素晴らしいコンデ‐ションであることのために、前からちゃんと、そのための心準備がしてある、いうなら心行がしてある。だから心がいつも神様へ向けられて、生き生きとしておる、その生き生きとした心で願うから、おかげを頂くはずだということになります。若先生の場合は、形のことはでけておる、けれども神様へ向ける心が枯れておる。ね、これではおかげを頂けるはずはないし、同時にいかに自分が心行をおこたっておるかということを気づかせて頂いてです、ね、(?)朝の、んなら5時の御祈念なら5時の御祈念にですよ、ね、5分間か10分間くらい早よ出てくりゃいいのですから、それを5分でも10分でも時間をきるということはです、もうすでに枯れた心です。だからそれを繰り返し繰り返し、誰でも初めから( ? )はおりませんから、ね。繰り返し繰り返しさせて頂くうちに、「はぁ、これではいかん、これではいかん」と、改まっていくわけでございましょけれども、ね、決して同じじゃない、「はぁ、こんなこちゃいかん、こんなこちゃいかん」と、例えば思いよりましょうからです、ね、そのために一つ心行させていただいて、あれもこれもとわ言わん、せめてこのことだけには、生きた心で御用ができるようなおかげを頂かなければならない。それを皆さんの場合は、実生活の上においてです、ね、神様に生きた心で向かう時と同じ心の状態を持って、生活の上にそれを、生活のいわゆる現場で現していく、御話しを頂く時だけは、なるほどと分かっておるけれども、もう家に帰ったら、忘れておるという時には、もうすでに枯れておる時です。ね、それではまぁ、いけんのです。

 最近、いわば申しておりますね、心行がね、おろそかになっておる、心行は誰でも、いわばわかりません、形に現れませんから、ごまかそうと思えば、どんなんでもごまかせます。それでは生きた心を持ちつづけることも、また生きた心の状態をもって神様へ向かうこともでけません。理解を申して聞かせと、理解を聞かせてもろうて、それを自分達の心で頂き止めるためには、まず心が生きておらなければならん、それが大変難しい時、んならも、ありましょう。ね、けれどもそういう時には一つ、死んでしまうのじゃない、死んだ気でそのことに取り組ませて頂いたらでけんことはありません。そういう修行が繰り返されてこそ、初めてです、神様の理想郷であり、私共もまた、実はそういうおかげを頂きたいという願いを持っておるのですから、その願いに、と、神様の願いとが一つになったときにです、ね、私共の願いが成就し、神様の願いが成就するということになってまいります。そういうおかげを、一つ目指して頂きたいと思いますね、どうぞ。